1年半ぶりの14区のブロカント。
半月前に入手した「パリの変遷」版画を、Dのところでさらに3枚買い足した。
1枚目は、1840年のポン・ヌフ橋を右岸の西側から眺めた絵。
2019年4月に消失したノートルダム大聖堂の尖塔が完成したのは1859年だったので、1840年当時は尖塔なしの姿だ。
一度も尖塔を見ずに一生を終えた18世紀19世紀生まれのパリジャンも、少なからずいたのだろうな。
ポン・ヌフ橋の上の半円型のベンチに、当時は屋根と壁があったことがわかる。
おまけに、右端には商店のようなひさしが見える。
十六世紀末まで、パリにはこれら四本の橋(両岸に二本ずつ)しかなかった。都市とその諸活動の増大によって、家屋でせばめられた橋の混雑は許容範囲を超えてしまった。一五七八年、アンリ三世は新しい橋の礎石を据えた。ポン・ヌフと呼ばれたこの橋は、今日ではパリ最古の橋であるが、式典のあいだ、決闘で落命した稚児ふたりの喪に国王が服していたため、「涙橋」と命名されかけた。宗教戦争で完成は遅れ、一六〇四年にようやく出来上がった。これは家屋を乗せない最初の橋で、たちまち流行の場所になり、軽業師や大道芸人、大勢の職人たちが陳列台を並べ、高級小間物商、古本屋、葉抜きなどがやってきた。
アルフレッド・フィエロ著 鹿島茂監訳『パリ歴史事典(普及版)』(白水社、2011年)p.559「橋」の項
歩道の先駆としては、一六〇七年、ポン・ヌフ橋の落成に際して橋の両側に設けられた側道の例がある。だが、この歩道の祖先は商品を並べるために利用されたため、ほとんど歩行者の役には立たなかった。
アルフレッド・フィエロ著 鹿島茂監訳『パリ歴史事典(普及版)』(白水社、2011年)p.679「歩道」の項
なるほど、ポン・ヌフ以前のパリの橋には必ず住居がくっついていて、歩道というものはなかったのか。そして、ポン・ヌフ橋に作られた歩道の祖先は、最初は商店街のような形で使われた、と。
洗濯船が停まっている。洗濯物のセーヌ川への映り込み描写がニクい。
2枚目は、1855年のMarché des Innocents、現在のForum des Hallesショッピングセンターの南東にある、噴水Fontaine des Innocentsのある広場に立っていた市場の絵。
右奥がフォーラム・デ・アールの方向になるのだと思う。
この噴水、土台は作り替えられたようで形がちがうけれど、上部の構造は昔のままだ。
3枚目は、Cimetière des Innocents、1550年の墓場の様子を描いた絵。
2枚目の市場と全く同じ場所が、その300年前には墓場だった。まだ噴水はできていない。
古い時代の埋葬の絵ってなかなかないので、これは買っておこうと思った。
その様子を見てDが、「じゃあもしかしてこれも好き?」と出してきた小さな本が、好みドンピシャの装丁だった。
ジョルジュ・バタイユが1942年から1944年の間に書き、彼の死後に出版の運びとなった作品、「死」。
1967年にJean-Jacques Pauvert出版社から限定6000部で発行されたバージョンで、私が買ったこれには3089番の番号がついている。
乳白色の美しい紙に活版印刷で、片手に収まりの良い大きさ。読むという行為のエクスタシーを味わえる、完璧なオブジェだ。
読まなくてもそこにあるだけで美しい、所有欲を刺激する稀有な本。