前日と同じブロカントなのだが、月をまたいだので実際には8月1日だった。
Vavin駅側からスタンドを遠目に冷やかしつつ歩いていると、KANSAIの文字が目に飛び込んできた!関西?
手に取れば、どうやら旅行のしおり…
1964年東京オリンピックのフランス代表選手団が、競技後に関西を視察旅行したときのしおりだ!
“Voyage culturel dans le Kansai”、「関西の文化を訪ねる旅」というタイトルにグッとくるね。
タイプライターで打った文字が、時々ズレていて味がある。DinerのDとか。
京都に到着してすぐに、祇園コーナーで茶道、箏、華道、京舞、文楽の見学。
よく見るとものすごいハードスケジュールで、土地勘のある関西人でもこのスケジュールでは動きたくないな、というのが感想。
旅程2日目なんて15時に桂離宮、16時15分に三十三間堂、17時に清水寺だ。桂離宮の見学だけで2時間以上かかったのに、私…
まあ基本的にはバスでの移動だろうし、当時は今ほどの交通渋滞もなかった。京都の観光地も黒山の人だかりではないから、可能と言えば可能か。
3日目の朝には神戸に移動。
11時にはフランスの産業ガスメーカーAir Liquide社による、関西地方での産業をテーマにした講演会に出席(これ不思議なんだけど、この会社が選手団スポンサーの一員だったとか、旅程のコーディネートをしてあげたとか、そういう関係だったのかな)、12時半に六甲山の上で昼食。14時に川崎造船所を見学、16時半には奈良に向けて移動。ひー!いそがしー!
余白に書き込みがたくさんあるのだけれど、判読いたしがたい。文末に「!」マークとかもあるし、良い方の驚きだったと思いたい。
「お寺では土足厳禁」とか「ここは写真撮影許可もらってます」「建物内部の撮影禁止」とか、ちゃんと細かい注意点も書かれている。
「みなさんに京都と奈良を最大限に楽しんでいただくため、かなりタイトなプランニングになっています。時間厳守でお願いします。」だって。ここまで詰め込んでまで関西に行きたいと思ってくれたんだね、当時の選手団。なんかうれしい。
1964年といえば、まだ1ドルが360円に固定だった時代。
日本人で余暇に海外旅行に行ける収入があった人はごくわずか、フランス人だって同じようなものだったと思う。この機会にぜんぶ見たい、二度と来れないかもしれない、という気概を感じるスケジュールだ。
横長のガイドブックはこんな感じ(金閣寺についてのページ)。
そしてこれが、東京オリンピックの競技場マップ。ブリヂストンタイヤの昔のロゴ、かわいい。
開くと、
片面は関東全図で、
片面は東京の拡大地図。
東京オリンピック記念切手シート(これを選んだせいで会計が高くなった)。
週刊誌か月刊誌の、見開き記事の切り抜き。
「オリンピック・イン・カラー」の名を冠したページである。当時はカラーページ印刷がいかに高価で貴重だったのかが伺える。東京オリンピックを機にカラーテレビの普及が加速したとは言え、実際には白黒のテレビで観ていた日本人の方が多いのだよね。
おそらく、ここに写っている中の1人(またはコーチ)が、全ての書類をだいじに保管していたのだろうな。
9月20日の夕方、スマートなユニホームに身をかためて、フランス選手団が代々木の選手村に入村した。スーツケースのチャックにも三色旗がついている。撮影・秋元出版写真部員
「チャック」って久しぶりに聞いた(ジッパーとかファスナーのことです、念のため)。
秋元出版ってどこだろう。そこそこ大きな出版社のはず。
Air Franceの機内食メニュー。北極航路!パリからハンブルグ、そこからアンカレッジに行って、やっと東京か。乗り換え2回、長いな。
フランス料理メニューの、日本語の表現が面白い。
「青豆バタ炒め」「取混ぜ果実」は、いまなら「グリーンピースのバターソテー」「フルーツ盛り合わせ」って感じだろうか。
アルコール類は1964年当時は有料だったんだね。でもお寿司はサービスなんだ、ふーん…
東京着陸前の朝食メニューが最高にいい。
「フランス風月型パン」だ、クロワッサンの日本語訳が。なんて風流なんだ!
「ジヤム」もいい。拗音の版がとっさに用意できなかったんだろうな。
奈良の観光ガイド。京都だけじゃなくて奈良も楽しみにしてくれてたんだ~
見どころは当時も今もあまり変わらない。鹿とか阿修羅像とか。
松山鹿鳴園って今でもあるのかな…と思ったら、あった!
松山鹿鳴園は、松山志良(年譜不詳)が転害門近くで昭和初期に開いた写真画材の店。薬品調合名手としても知られ、入江泰吉などは特別配合現像液を調達したと言う。自らも法隆寺や東大寺の仏像を撮影し、松山調の黒バック写真は土産仏像写真葉書にあり、戦後寺社のカラー絵葉書・萬葉植物園写真に「国際観光絵はがき協会会員」としての発行を認める(清水公俊・写真松山志良(1945)『東大寺』)。會津八一は、松山の写真も好んで応援し交流があったらしいが、文化人サロンを好きとせず独歩の写真家であった様だ。子息紀巳男・孫政弘氏は東大寺上堂参道鐘楼の丘で名物カレーの茶屋を営み、八一揮毫の縦長の扁額と暖簾がかかる(10時~16時半・不定休 ☎0742-22-6137)。
尚、万葉の萩の歌で登場するのに鹿が多いことで、萩は「鹿鳴草」と称するのだそうだ。會津八一は、戦後自分の肖像写真を撮った入江泰吉(いりえたいきち1905~1992)や土門拳(どもんけん1909~1990)と、新潟に疎開し、日本海沿岸農村・漁村の風土と生きる人々のくらしを追った写真家濱谷浩(はまやひろし1915~1999)を応援したと言う。
奈良大和路ほんまもん観光相談センター